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親鸞聖人の生涯|命日と報恩講の関係

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親鸞聖人の生涯|命日と報恩講の関係

親鸞聖人の生涯|命日と報恩講の関係

2025/03/03

親鸞聖人の誕生と出家

しんらんしょうにん

1173(承安3)年、親鸞聖人は、京都にお生まれになりました。父である日野有範は朝廷に仕える役人でしたが、母についてはさだかではありません。
9歳の時、親鸞聖人は、後の天台座主・慈円のもとで出家されます。それから20年もの間、比叡山延暦寺できびしい修行と学問にはげまれました。しかし、どれだけ修行と学問にはげんでも、さとりを開く道を見出すことはできませんでした。

法然上人とのであい

ほうねんしょうにん

親鸞聖人は、29歳の時、比叡山の仏教と決別し、道を求めて聖徳太子ゆかりの六角堂に籠こもられました。そして、95日目の暁あかつき、聖徳太子の夢告むこくにみちびかれて、法然上人のもとをたずねられます。法然上人は、だれに対しても平等に「ただ念仏もうしなさい」とお説きになっていました。親鸞聖人は、この教えこそ、すべての人に開かれている仏道であるとうなずかれ、法然上人を生涯の師と仰ぎ、念仏者として歩み出されました。
法然上人のもとで、親鸞聖人は約6年間過ごされました。その間に、法然上人から主著『選択本願念仏集せんじゃくほんがんねんぶつしゅう』の書写と真影(法然上人の肖像画)の製作を許されました。また、恵信尼公えしんにこうと出遇い、結婚されたのもこの頃とされています。

越後・関東での生活

法然上人の念仏の教えには、親鸞聖人だけでなく、老若男女、身分を問わず、たくさんの人々が帰依きえされました。しかし、興福寺や延暦寺などの他宗から強い反発を受け、ついに朝廷が弾圧に踏み切ります。その結果、4人が死罪、8人が流罪というきびしい処罰が下され、法然上人は土佐(高知県)へ、親鸞聖人は越後(新潟県)へ流罪となりました。親鸞聖人35歳の時でした。
5年後、流罪が許された親鸞聖人は、法然上人の死を知ると、京都には戻らず関東へ向かわれました。そこで約20年間滞在し、常陸(茨城県)の稲田を中心に、念仏の教えを広く伝えていかれました。

親鸞聖人の報恩講

ほうおんこう

報恩講は、親鸞聖人が生涯をかけて伝えてくださった念仏の教えを聴聞し、信心獲得が願われてお勤まりになる真宗門徒にとって最も大事な御仏事です。信心獲得することが親鸞聖人への報恩謝徳となるのです。
思い出してみますと、私が小学生の頃は、講師の先生が私のお預かりしているお寺に宿泊されていましたので、お風呂の掃除をしたり、火鉢を運んだり、廊下の雑巾がけなどをしていました。ご門徒方はお斎の準備や幕を張ったり、仏具のお磨きをしてくださっていました。「ああ、今年も大事なことが始まるんだ」と幼心に感じていたことです。
今、住職のお役を賜り、毎年報恩講に遇わせていただくと、知らず知らずのうちに無数の縁に支えられ、育てられ、共に歩んでくださった方がおられることを思います。そのお一人が親鸞聖人です。

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